3泊4日で旅に出る会社員の旅ブログ

会社員でも旅に出たいをテーマに、サラリーマンの吉川が、駐在するメキシコを中心に旅した記録をつづります。チアパス州の奥地にあるエバーグリーン牧場を舞台に繰り広げられる人や動物との出会いが第1作目です。

22話 馬に手のひらはないけれど

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馬の毛並みや肉付きを見ているといかに愛されているかが分かる

それまで観光地で馬に乗って散歩したことがあったので、僕は勝手に乗れる気になっていたし、ある程度馬のことは知っているつもりでいた。だけどサムエルからいろいろな説明を受け、馬と触れ合っているうちに、実は知らないことだらけだということが分かった。

例えば犬や猫の肉球みたいに柔らかい足の裏の肉が、蹄の内側に隠れていることを初めて知った。馬に日本語で話しかけたのも初めてだし、ブラッシングをすると気持ちよさそうにしている馬の表情なんて見たこともなかった。

馬のたっぷりとした腹や、あごの引き締まった肉のあたりをブラッシングしながら、頭側に回ったり、しっぽ側に行ったりうろうろしていると、突然ネイライダに足の甲を踏まれた。彼女の左前足が僕の左足の甲に遠慮なく乗った。びっくりした。サムエルによると1頭の重さは600キロだから、単純計算でその4分の1の150キロが足の甲に乗っかることになる。

でも足を無理やり引き抜こうとしても、馬は簡単には足を上げてくれない。そもそも僕の足を自分が踏んでいることすら、ネイライダの意識にはないのかもしれない。幸い甲の部分が少し硬くなっているテニスシューズを履いていたからケガはしなかったが、急にブラッシングをやめた僕に気づいてサムエルが近づいてきた。

 

「踏まれたのかい」

 

サムエルはにやにやしながら言った。最初はブロークンながらスペイン語で話してくれていたが、この頃にはもっぱら彼の母国語である英語で会話するようになっていた。

 

「馬に近づき過ぎないように。常に手で馬を触りながら、踏まれないぐらいの距離は保つようにして、自分がここにいるんだとスキンシップで伝えるんだ。それでも足を踏まれたら、軽くその手で馬を押せばどけてくれるさ」

 

馬との心の距離を縮めようと一所懸命話しかけたり、ときに耳元でささやいてみたりしていたが、物理的な距離は近ければ近いほどいいというわけではないみたいだ。さらにサムエルは馬のお尻側に回る時の注意事項も付け加えた。

「蹴られるのを怖がって距離を置きすぎると、逆に危ないぜ。万が一蹴られたときには、馬の後ろ脚には強い力が入る。だからいつも手のひらで背中や脚に触れながら、自分の居場所を知らせながら、後ろに回るんだ。手が触れられる距離にいれば、近すぎて強烈な後ろ蹴りを食らわなくて済むからね」

 

確かに至近距離にいればお尻側にいても蹴りようがないみたいだ。

結局僕は二度踏まれたが、2回目はそれほどびっくりせずに、馬のお腹を押して丁重に足をどけていただいた。

そんなふうにしてネイライダに丁寧にブラッシングしていると、だんだん僕が彼女に操られているような不思議な気持ちになってきた。馬はそれまで心を通わせる相手ではなかったが、ブラシを強く当てて頬骨やあごの下あたりをごしごししていると、目を細めてうっとりする。立ったまま寝たんじゃないかと思うぐらいだ。

それでたまに手を抜いて少しの間さぼっていたら、僕の服の袖口をくわえてひっぱられた。それも一度や二度ではない。そのたびに僕は驚いてネイライダを振り返るが、ネイライダはわざと「私何もしていませんわよ」という顔でそっぽを向く。その様子を見ていたサムエルが、

「ネイライダみたいな年をとった馬はどうやれば自分の思い通りになるか全部知っているさ」

と、またもにやにやしながら言った。馬に「手のひら」はないはずなのに、完全に手のひらの上で転がされている。