ダニエルはよく僕がテープに録音した曲を持っていくと、宿題として持ち帰ってくれてコードを探して、弾き方を教えてくれた。
その中でもよく覚えているのが、ニーナ・シモンの歌う「Love me or Leave me」だ。
もともとメキシコ人の観光ガイドの友達が教えてくれた曲で、いわゆるジャズのスタンダードな名曲に数えられるのだと思う。
ハスキーで野太い声がセクシーで、私のこと好きなの、そうじゃないのみたいな言葉で迫ってくる。
ダニエルは僕がそれまで習ったことがないディミニッシュトコードなるものを持ち出してきて、
「そろそろ、次のステップに行く頃かもしれないな」
とつぶやいた。
「ジャズはブルースとつながっている。けど、結構理論的に高度な部分があるし、コードも少し変則的だ」
そういいながら、Love me or Leave meとギターを刻みながらバリトンで歌い出した。
彼の部屋は、がらんとした石づくりで、オアハカ特有の乾いた空気がギターのコードをくっきりと浮かび上がらせる。僕はそのコード進行に聞き入った。ただかっこよかった。
僕は家に戻って何度も練習したが、ツービートのリズムを、変則的な押さえ方のコードで刻むのが難しく、結局歌いながらなんてとてもじゃないけどできなかった。
フレットを押さえる左手も、あるコードの時は小指が内側にそって曲がってしまいうまく力が入らないのだ。
今となっては、僕の残念ながら弾き語りリストにコード進行表が入っているが、人前では弾けない曲としてずっと課題として残っている。
この曲を教わった頃、つまり習い始めて1年たったある日、ダニエルに僕は告げた。
「もうすぐ日本に帰ることになった。大学に復学しないといけない。だからレッスンはあと1か月しか受けられないんだ」
ダニエルは大げさに驚いたように僕には見えた。
「シンジがいないオアハカか。味気ないな」