小さなオアハカの空港を発つと、大都会のメキシコシティへ50分ほどで着く。
最後の日、友人たちが見送りに来た出発口で、僕は寂しいというよりは、お世話になった土地への感謝と、これから日本になじめるのかという不安で感傷的になっている暇はなかった。
その冬、確か3月の初旬だったと思うが、成田空港に約2年ぶりに到着して、初めて寂しさがこみあげた。友人たちやダニエルとはまたいつか会えると確信があったが、決定的に欠落していたのは「色彩」だ。
成田を足早に歩いている男女は、みな一様にシックな黒ベースの服を着ていた。それがえらく悲しく映ったのだ。黄色や赤や派手な柄を自由に笑顔とともに着こなし、べらべらと大声で冗談を言い合う能天気な人は1人もいない。みなどこか目指して一所懸命に歩いていた。僕も大学のある地を目指して、意識を集中させた。
僕は結局1年間で卒業論文と就職を駆け足で済ませ、ギターは少し時間ができたときに触るぐらいになってしまった。探したが先生は近くには見つからなかったし、そもそも留学でお金は使い果たしたから、レッスン料も払えなかっただろう。
日本に帰ってすぐに月2万円のアパートを借り、バーでアルバイトして何とか生計を立てた。就職情報誌にあるめぼしい企業に資料請求して面接をいくつも受けた。卒業論文も書いて提出し、何とか大学を卒業した。そしてまた会社の勤務地に近い場所に引っ越した。なぜかしっくり来ていないのを見て見ぬふりをした。
ダニエルのことは、たまに思い出していたが、彼とのレッスンで得られた自信と、楽器を1つ弾けるようになったことは僕の中で静かに、でも確かな何か「塊」のようなものとしてじっと居続けた。新入社員として企業に勤めるのに慣れるのも、大変だったし、へとへとで家に帰って、ご飯を食べたらすぐに次の日がやってきた。それでもその塊は消えなかった。もしかしたらそれは、いつかどこかで僕が音楽を披露することで誰かに喜んでもらえる日がくるかもしれない、というぼんやりとした予感のようなものだったのかもしれない。