2月に日本に出張に行ったら、最終日に歯が折れた。
3日の旅程を無事終えて、メキシコシティから同行した30代の中堅ホープを銀座に置き去りにした。
「ユニクロはあっちね。博品館はこっち。時計とかブランド品は歩いてたら腐るほどあるから。悪いけど飯はなんとかどっかで一人食ってね」
初来日の彼には少し酷だったが、どうしても日本で暮らす娘と、イギリスからたまたま来てる学生時代からの写真家の友人パトリックと一緒にご飯を食べたくて、ホテル集合時間を決めて一旦解散した。
ウェールズに住むパトリックは、個展の手伝いに一緒に来日しているご近所さんも、食事に連れてきたいというが、ベジタリアンだから「どっかいいとこ探してえな」という難題を少し前にもらっていた。
メキシコにいた時からどこに行くか考えていたが、日本に来てからも、何がいいのかずっと迷っていた。その日の予定はなかなかパンパンだった。大門町で終日の会議に参加し、食事後には八丁堀にあるホテルをその日、チェックアウトしなくてはならない。ちょうどいい場所があるか、AIに相談しても情報がいい加減で楽しめそうなところが出てこない。そもそもこれまで、ベジタリアンの外国人を日本で食事に連れて行く機会がなかったことを思い出した。
「いやいや、日本は出汁にも魚を使うし、野菜だけの食堂作っても人気出ないから難しいよとか言い訳して、初来日の彼はホテルに置いて好きなところ行こうよ」なんていうことはやはりできなかった。
でも、いや待てよ。これは将来きっとなんかの役にたつ。探せばあるはずで、今後世界中から日本を訪れる人を連れて行けるように、勉強しろと神様が試練を与えているんだ、と受けることにするまではよかった。野菜好きの日本人ではあるが、うまいと言われる料理には少なからず魚由来の出汁が入っていることが多い。ビーガン料理を出すダイニングも検索でひっかかったが、今度は肝心の肉食可能な残り3人、つまり僕と娘と写真家が楽しめない。
「野菜しか食べられないんだったら、無理してまでいかないよー」と、最初はプロの芸術家に会えると乗り気だった学生の娘も寂しいことを言い始めた。前日に会議を終えてから、メキシコ人のホープが浅草のドンキホーテで円安デビューで買いまくっているのを尻目に、僕は近くのデニーズでお茶を飲みながら、携帯の画面で目ぼしいところを見つけては野菜中心の和食はないかとメニューを眺めていた。
まず、最初に思いついたのは日本を代表するヘルシーフードの寿司だが、魚がない寿司なんててどこも出していなかった。洋食屋や居酒屋でベジタリアンの外国人が重宝しているところはないかと探したが、これも4人全員が満足する、つまり肉食もできてしっかりと菜食主義者も同じ席で楽しめるところは見つからない。パトリックからは、こんなのあるよと、とある外国人向けベジタリアンおすすめレストランが載っている情報サイトが送られてきた。でも、日本っぽさがないところばかりだ。
厳格なジャイナ教徒を擁するインド人が大挙として訪れているのだから、きっとインド料理屋ならメニューは豊富だ。でもイギリスにはインド料理が日本の比ではないほどある。ロンドンは3600軒、東京はその半分以下の1500軒らしい。しかもウェールズから来ているベジタリアンの彼は、今回が初来日だ。そして本格的な外食はその夕食が初めてなのだ。当然和食を期待しているに決まっている。
「天ぷら、どうかいね」となかなか待ち合わせの場所を決めない僕に、助け舟のメッセージを送ってきた。
「いいけど、目の前でばかばかと動物由来のご飯食べるのは問題ないかね」と返す僕に、「それは気にしなくていい」と返事が返ってきた。
出汁は当然鰹が入るから、すまし汁はダメだけど、もしかしたらきのこや野菜で満足いくコースがあるかもしれない。
翌日に控えた会議より食事の方が、心配になってきた。うまく銀座付近でアレンジしなければ、六本木からやってくるイギリス人と、茨城からやってくる娘と大門町から地下鉄で動く僕と、そこで東京の夜に解き放つ予定のメキシコ人の合計5人が満足できない。その上、その日のうちに成田に移動して翌朝にはメキシコに戻るのだ。
そして、食べログをぐりぐりといじくりまわした挙句に、天ぷら屋に電話をかけ始めた。すると2軒目で、なんと「天ぷらの阿部 銀座本店」というお店が、快諾してくれた。
「じゃあ、八千円のコースを3名、一人は野菜だけにして六千円ね」
なんとも物分かりの良い男性(阿部さんかもしれない)の声を聞きながら、僕はデニーズの入り口の踊り場のようなスペースでガッツポーズを小さくした。
早速、娘とパトリックの両方に連絡した。集合時間もなんとか会議後に移動すれば間に合い、その上同じ日に成田に移動できるギリギリの18時に設定できた。
本当に全てがうまくいくかに思えた。でも、体は三日で地球の反対から来て、そのまま2日間の会議に腰痛をおして参加した後だから、やっぱり疲れていたかもしれない。
時間通り阿部本店に着いたら、すでにイギリス人の二人はビールを飲んで待っていた。娘も間も無く到着した。僕らはコースで出される小品たちを、口にしながら、わあわあとお互いの近況を報告し合った。ベジタリアンのウェールズ人の彼も喜んでいた・・・。出汁が出てきた時は、これには魚由来のエッセンスが入っていて云々と説明したら、「そうね、これは食べられない」と言う。それでもほとんど同じペースで少しずつ出される天ぷらは、揚げたてだし、厳選された素材のようで、うまい。
やはり、肉食系の三人より食べられるものが少ないが、それでもこんなにスムーズに行くなんて、阿部さんは天才だと思ったのだ。
が、事件がまもなく起きた。
ワカサギの天ぷらが我々肉食組3名に運ばれ、それを食べていた時だった。ガリっと石を噛んだ時のような衝撃が、脳天に響いた。なんでだ、銀座の一流店で石が天ぷらに入るわけなんてない。頭がパニックになった。そして口から出てきたのは小さな硬質の物体。それと同時に前歯と犬歯の間にあるべき側切歯(そくせっし)のところに我が舌が感じたのは、紛れもない「歯ぐき」だった。少し歯の根本の感触もある。
僕は作り笑いをキープしながら、隣の娘に「歯が取れた」と小声で告白し、ニッと前歯が見えるように口角を上げた。このまま歯抜けで死ぬまでいくのか、「高くて痛い」と噂のインプラントに走るのか。目の前の天ぷらは食べ続けることができるのか。目の前のイギリス人二人にも伝えるべきか。楽しい談笑タイムの雰囲気を壊したくないのと相まって、延々の「どうする俺」モードに入っていた。
小さなその歯をティッシュに包んでリュックにしまってから、歯がとれたことは目の前の二人に伝え、少し痛みはあるがなんとか食べ続けた。いちいち微かな血の味がして、どうしても舌がかつて歯があったはずの、場所を探ってしまう。最後に出てきた小さな鯛焼きの天ぷらデザートは、きっと全部の歯がある状態ならもっとうまかっただろう。
店を後にし、三人と有楽町で別れた。メキシコ人の後輩も、無事一人で日高屋でご飯を食べて、ホテルで合流した。そこからタクシーに乗って上野に行き、特急で成田空港に向かった。着いたのは11時を過ぎていた。メキシコのかかりつけの歯医者に携帯でメッセージを送って、メキシコに帰ったらできるだけ早く診察してもらいたいと伝えたら、着いた日の金曜日の夜に診てもらえることになった。
こんな時、メキシコの医者は連絡を気軽に取れるので助かるのだ。しかもなんとか急ぎの診察も事情によっては受けてくれる。日本だと受付で予約してせいぜい1週間後まで歯抜けのままになるところだ。
「虫歯が合ったから根幹治療した歯ですね。どの歯もそうですが、どうしても見えないところにヒビが入ることがあるんですよ。でもね、根本が残っているから、インプラントせずに治せます。」
この福音のような言葉を僕は一生忘れないだろう。それまでの暗澹とした気持ちが一気に晴れた瞬間だった。そして腕利きの彼は、見事に僕の失われた歯をセラミックで復元し、根本にくっつけてくれたのだ。
「まあ、無理して前歯で硬いものを噛まなければ5年はもちますよ」
4週間かかったし、歯茎を削ったりして痛かったし、20万円ぐらいかかったけれど、銀歯になるよりいいし、インプラントで骨にネジを埋め込むことを想像したら全然問題ない。治療費の一部は、保険がきっとカバーしてくれるはずだ。いや、きっとそうだ。そうに違いない。いやちょっと自信がないけど、まあ、歯抜けでこの後の人生後半戦を生き抜くよりはいい。
55歳になったばかりの僕は、出張前にプチぎっくり腰になるし、何か自分の体に得体の知れない災難が起こっていることを自覚し始めていた。そしてその予感は当たっていた。こんなぐらいで役職定年を迎えた僕を、神様は許してくれなかったのだ。
(続く)
















