コードを実際に鳴らしながら曲を弾くための練習曲も自分で用意する。僕が授業に持って行ったカセットテープを彼は預かり、次の授業までにコード進行を書いて用意してくれていた。このやりとりは僕が彼からギターを習った半年間、ずっと続いた。
最初に選んだのは当時ラジオで聞いて好きになった「Por Ella(ポル・エジャ)」という曲だ。ブラジル人歌手のロベルト・カルロスが、1990年にリリースした。僕がメキシコに留学したのが1991年だからよくラジオで流れていた。たぶん、母国語のポルトガル語でも歌っているのだろうが、僕は聞いたことがない。スペイン語で歌い、当時ほどほどにヒットしていたが、僕はなぜかその淡々として、少し切ないラブソングが好きだった。直訳すると「彼女のために」とか「彼女のせいで」みたいな意味だと思う。
当時ブラジルの正統派歌手のロベルト・カルロスはギター1本で母国だけでなくラテンアメリカ全般を渡り歩いていた。ブラジルはポルトガル語だが、それ以外の国ではほとんどスペイン語が公用語だ。でもこの二つの言葉は同じラテン語をルーツに持ち、よく似ている。だからロベルト・カルロスにして見れば、両方で歌えば聞いてくれる人が何倍にも増えるというわけだ。
「1曲だ。たった1曲が心理的に成長させる。コードを弾きながら、1曲歌うことができるようになろう。弾き方はあまり気にしなくていい。そう上から下に指で鳴らして」
僕は習いたてのコードをじゃらんと鳴らしながら、恥ずかしいのでぼそぼそと歌詞を唱えてみた。だけどそんなに簡単にいくわけはない。ダニエルはそれを見て、見本を見せた。もともとラテンのリズムが底辺に流れている曲だから、日本のフォークソングみたいに単調ではなない。テープを聞きながら、彼は親指で弦をリズミカルに鳴らし始めた。そしてそれは軽快であまりにかっこいいラテンのリズムだった。
だけど、いくら真似をしてもぼくはじゃかじゃかと単調にしかならせない。ラテン調にしようともがくほど、つい途中で手が止まる。そしてまたじゃかじゃかやろうとするがまた止まる。僕はだんだんやけになってきた。でもダニエルは「ん?」という顔をした。
「ちょっと待て。それでいいんだ。シンジのやり方でいいんだ」
ダニエルによると、僕がたまに手を止めるリズムのとり方が独特で面白いのだそうだ。
「オリジナルの弾き方を見つけるのはそんなに簡単なことじゃない。もうお前さんはそれをやり始めているんだ」
日本で育った僕は、先生というのは教科書通りにしないと無理に矯正するのが仕事だと思っていた。だけど僕のギターの師匠は真逆だった。オリジナルを見つけること。それが大切だ。そのために基礎をおろそかにしない。でも偶然できたビギナーズラックのような弾き方でも、それはかけがえのない財産だと教えてくれた。