3泊4日で旅に出る会社員の旅ブログ

会社員でも旅に出たいをテーマに、サラリーマンの吉川が、駐在するメキシコを中心に旅した記録をつづります。チアパス州の奥地にあるエバーグリーン牧場を舞台に繰り広げられる人や動物との出会いが第1作目です。

わりあいに本格派のラーメンと遠くを見つめる女性

メキシコは古くから壁画アートが受け継がれている。

フリーダ・カーロの夫「ディエゴ・リベラ」が世界的に有名だが、他にもシケイロスなど日本ではそれほど知られていないが数々の名作を残した壁画画家はたくさんいる。

でも、もともとはいきなり画家になったわけではない人もいそうだ。壁があれば描く。これは多くの人道行く人に一番目につきやすいキャンパスとして、アートを志す人に衝動を与えるのだろう。

私の住むメキシコシティでもいたるところに壁アートが存在する。

今回から不定期で「メキシコの壁アート」と題して、街で撮影した壁を紹介する。

先週までなかった壁のアート、ラーメンをお箸で食べようとする姉さんはなぜか寂しげに遠くを見ている。Ramenの文字もしっかり入っている。

 

第1回目は、とあるラーメン屋の壁。実は結構家から近いので今回行くのは2回目だが、先週までなかった絵が突然現れた。

「アーティストが定休日の月曜に来て描いてくれたのよね」

とちゃきちゃきの女性店長が自慢げに言った。

ちなみにラーメンはメキシコでこれから空前のブームになる予感がしている日本食だ。

まず、マルちゃんのカップヌードルは日本ではたぶん売れないであろう非常に質素なものが、どこのコンビニや街角の小売店で必ず置いてある。

メキシコ人にとっては国民食になってしまっていて、レモンやチリパウダーを入れて食べる人も多い。

そんなヌードル受け入れの土壌があるうえに、日本で修行した日本人が店舗を開き始めている。今回のお店は日本人常駐ではないが、店主は日本人。麦茶だって出てくるし、当然割りばしで食べる。

チャーシューラーメンには、「なると」という名前がついていた。

これまで日本に帰ったらラーメンを食べたくなっていたが、いつの間にかメキシコでもレベルが上がり始めていて、うまい店にはしっかりと行列ができる。メキシコ人YouTubeが出資している店もすごい人気らしい。そういえば中東でも空前のラーメンブームと聞いたから、アラブ系の混血も多少はいるこの国でもあと3年ぐらいですそ野が広がるかもしれない。

だからたぶん僕自身も、本気の寿司であるとか、本格懐石料理にしか今後日本に帰っても触手が伸びないかもしれないな、などと最近は思っている。

 

おまけでこの小さなお店(20席ぐらい)の2階から、3階に上がる本当に小さな三角形の壁に登場したアートを紹介する。

 

2階から3階に上がる狭小スペースにもアートが。なるとがさりげなく入っている。

何だかおしゃれだな。

冷えた麦茶を飲みつつ、チャーシューや麺をそっと口に運んで味わった。

メキシコではずるずる音を立てるとマナー違反になるので。

 

 

 

山と電波とラブレター 英語版について

昨年11月に出版した「山と電波とラブレター」。

 

内容がどちらかというと欧米人向けなのではないかと、自分でも前から思っていて、今回全文を英語に翻訳しました。

 

と言っても、実はDeepLというドイツの会社が運営している自動翻訳ソフトを利用したので、ほぼ自分の力ではありません。

 

グーグル翻訳とは全く違って、非常に精度が高くて、驚いてしまいました。

 

あるサイトで日本の方が、英語出版をしているのを参考に、まあ、試しにと使ってみたら、これがすごい。あっちゅうま(1分もかかりません)にワードファイルがそのまま英語になりました。

 

その訳をざっとまず自分で目を通して、その後、娘の家庭教師をしているイギリス人の先生に読んでもらい、一緒に直す作業を手伝ってもらいましたが、所要時間はたった1か月で34000語の訳が終わりました。ちなみに訳から一歩進んで英語読者向けのリライトとなりました。

 

例えば、これは何を言いたいのか分からん、と先生が言ったら、拙い英語で身振り手振り説明して、あーん、そういうことかと納得したうえで「じゃあ、こういうことね」とリアルタイムで訂正していく。その際はGoogleドキュメントの仕組みを使い、ZOOMで話しながらお互い同じファイルを見ながら直していきました。

 

今回初めてそんな作業をしてみて、恥ずかしながら世の中えらい便利なことになってるなと、あらためて自分が時代にやっと追いついてきたかと感慨深いものがありました。

 

そしてイギリスネイティブの先生が、内容をえらく気に入ってくれたので、こちらが謙遜するぐらいでした。

 

というわけで、個人的にはエバーグリーン牧場のオーナー夫婦に読んでもらうべく送り、ついでにフランスのお母さん(クリスティーナさん、本文参照のこと)にフランス語にまたまた英語から自動翻訳したのを送りました。日本語からより英語からの方がたぶん、かなり自然なフランス語になってるだろうと、勝手にDeepLを信用しています。

 

さらに、ここまできたら、英語で出版だということで、まず無料で自分でできるキンドルダイレクトパブリッシングを目標にしています。

 

でも、その前に。

 

無理だと分かっていても、英語圏の出版社数社にこれから原稿を送って、少しでもフィードバックがあればいいなあと、うすーい望みを持っています。実はすでに3社に送りましたが、最低10社には送ってみます。

 

で、出版社の原稿募集ページを見ていて、ずいぶんと日本よりオープンに募集しているなあと思いました。新人賞的なものが日本では多いけれど、イギリスやアメリカでは出版社や出版エージェントがたくさんあって、私はこんな原稿を募集していますとまるで求人欄みたいに掲載しています。

 

でも、一つ、まあこれはそうだろうなあ、と思うのは、多くのところがSNSなんかのフォロワーが1万人など、売れる見込みを持っている人の原稿を求めていることでした。

そりゃそうか。

 

というわけで何かしら進捗があれば、発表させていただきますね!

 

第26話 最終話 再会、お別れ(2)

僕はダニエルにその後、一度だけ再会した。

短い夏休みを利用して、オアハカを訪れたのは、就職してから数年たってからだ。

メールやインターネットがまだ普及する前だから、どうやって待ち合わせたか覚えていない。だけど彼はメキシコ人の地元ミュージシャンとともにバンドを組み、バーで演奏をして、何とか生計を立てているようだった。

 

僕はダニエルが好きだった日本のチューブわさびをお土産に渡した。

「覚えてくれていたのか」

そう言いながら大事そうに小さなお土産をポケットにしまった。

 

そして、彼は僕をある家の裏庭に招き、バンドのメンバーとともに演奏を聞かせてくれた。スペイン語の歌詞で懸命に歌うダニエルは、心の底から何か魂のようなものを吐き出しているようだった。

 

それが、ダニエルに会った最後だった。僕は手紙を日本から何度か送ったが、一度も返事はなかった。僕は仕事を言い訳に、あんなに好きだったギターをもうあまり触らなくなっていた。うまくなっているという実感や聞いてくれる人がいない音楽は、だんだん無味乾燥なものになってしまったのだろう。

 

AmazonでダニエルのCDが売っていることを知ったのは、もう30歳を超えた頃だった。ダニエルからギターを習っていたころからすでに8年はたっていた。インターネットは当たり前になり、検索すれば相当な情報が得られるようになっていた。「Dan del Santo」と僕は何度も検索を繰り返した。少ないけれど彼の音楽遍歴が見つかったりした。

 

そしてある日、僕は「オアハカ」と彼の芸名を入れてあるサイトのニュース記事に行きついた。それは、オアハカ在住のアメリカ人が英語で身近なニュースをアップしていた。

 

オアハカのレストランで演奏していたプロミュージシャンのDan del Santoが亡くなりました。彼は腰の痛みを訴えていたが、一度も病院に行かず、そのまま一生を終えました」

 

記事はたんたんと事実を伝えながらも、僕の師匠がいかに音楽を続け、レストランのお客さんたちとコミュニケーションを取っていたかが、愛情をもって記されていた。僕はその英語の記事を読んで、もう会えないんだなと、悲しみというよりは「覚悟」のようなものを持ったのをよく覚えている。涙は出なかった。ダニエルの生きざまを記憶の中で辿り、お別れしてからの彼の苦悩や苦痛や幸せを想い、ただパソコンの画面の前でしばらく息が苦しくなっただけだ。

 

彼との出会いを通して、教科書やセオリーとはまったく無関係な「教える」こと、「教わること」ことに関する、すごく大きな意識の転換を僕は経験した。そして、それは今もずっと僕の中で息づいている。

 

「山と電波とラブレター」 書店での展開の様子と常陽リビング紙サイト掲載のお知らせ

学生の時に新聞より貴重な情報源として重宝していたタウン誌常陽リビング。

今回、本紙とサイトに掲載いただきましたので、リンクを紹介します。

 

取材があったので、多少本に込めた思いをお伝えしました。

 

www.joyoliving.co.jp

 

それから!

 

私はメキシコにいるので書店の様子は見に行けないんですが、友人たちが新宿の紀伊国屋本店や、池袋ジュンク堂の様子を送ってくれました。

 

新宿紀伊国屋本店

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綾瀬はるかの隣にしっかり積まれていると教えてくれました。

 

 

池袋ジュンク堂さん

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池袋ジュンク堂での陳列の様子

 

手に取ってもらえていたとしたら幸せですね。

 

今回の出版にはたくさんの感謝したい人がいて、個別にお礼してもしきれないです。

勇気をありがとうございました。

 

 

 

 

第25話 再会、お別れ(1)

小さなオアハカの空港を発つと、大都会のメキシコシティへ50分ほどで着く。

最後の日、友人たちが見送りに来た出発口で、僕は寂しいというよりは、お世話になった土地への感謝と、これから日本になじめるのかという不安で感傷的になっている暇はなかった。

 

 

その冬、確か3月の初旬だったと思うが、成田空港に約2年ぶりに到着して、初めて寂しさがこみあげた。友人たちやダニエルとはまたいつか会えると確信があったが、決定的に欠落していたのは「色彩」だ。

 

成田を足早に歩いている男女は、みな一様にシックな黒ベースの服を着ていた。それがえらく悲しく映ったのだ。黄色や赤や派手な柄を自由に笑顔とともに着こなし、べらべらと大声で冗談を言い合う能天気な人は1人もいない。みなどこか目指して一所懸命に歩いていた。僕も大学のある地を目指して、意識を集中させた。

 

僕は結局1年間で卒業論文と就職を駆け足で済ませ、ギターは少し時間ができたときに触るぐらいになってしまった。探したが先生は近くには見つからなかったし、そもそも留学でお金は使い果たしたから、レッスン料も払えなかっただろう。

 

日本に帰ってすぐに月2万円のアパートを借り、バーでアルバイトして何とか生計を立てた。就職情報誌にあるめぼしい企業に資料請求して面接をいくつも受けた。卒業論文も書いて提出し、何とか大学を卒業した。そしてまた会社の勤務地に近い場所に引っ越した。なぜかしっくり来ていないのを見て見ぬふりをした。

 

ダニエルのことは、たまに思い出していたが、彼とのレッスンで得られた自信と、楽器を1つ弾けるようになったことは僕の中で静かに、でも確かな何か「塊」のようなものとしてじっと居続けた。新入社員として企業に勤めるのに慣れるのも、大変だったし、へとへとで家に帰って、ご飯を食べたらすぐに次の日がやってきた。それでもその塊は消えなかった。もしかしたらそれは、いつかどこかで僕が音楽を披露することで誰かに喜んでもらえる日がくるかもしれない、というぼんやりとした予感のようなものだったのかもしれない。

第24話 最後の授業

「もう今さら何を言ってもしかたがない。ただ、シンジがオアハカからいなくなるのは寂しいよ」

 

僕のギターの先生はアメリカ人だ。日本的な奥ゆかしい表現はしない。

ストレートに僕が上達したことを自分のことのように喜び、これから、どうやって続けていくかのアドバイスをくれた。

 

「日本にだってギターの先生はいるはずだ。自分で見つけて、教えてもらうといい。それがかなわないなら、もう自分で学ぶことができるレベルにまで来ている」

 

そうやって心配するなと僕を勇気づけた。

もう、最後の授業で何をやったかは覚えていない。ただ、最後に記念撮影させてくれとお願いした。そして僕と彼の文字が往復書簡のように入り乱れたキンバリー製のノートの最後のページにサインをもらった。

 

彼はたぶん、メキシコに移住して、アメリカでテレビやラジオなどのメディアから遠ざかり、サインをねだられることがしばらくなかったんだろう、少し恥ずかしそうに小さく自分の名前を書いた。

 

本当だったら写真を載せたいところだけど、今はその許しを請うこともできない。

だから、やめておく。

 

 

第23話 カセットテープとラテン

ダニエルと僕はとにかくカセットテープを多用した。

楽譜が読めない、いやそもそも楽譜なんかいらないという前提で教わっている手前、メロディーは書きとめられない。コード進行と歌詞以外は勘で進めるのだが、どうしても録音しないと思い出せないことが多い。

 

じっとダニエルの手元を見ながら、カセットに録音する。

一通り見聞きしたら、それを家に帰ってひたすら再現する。

 

テープは道端の露店商の友人から買った。足が悪いからずっと座っているけど、いいやつだった。

 

あるとき、僕がカセットにはノーマルとクロームとメタルというのがあって、音質が微妙に違うんだという話をダニエルにしたことがある。僕は中学校の時にクロームのカセットを主に使っていたので、ノーマルのカセットテープが物足りないような話をしたんだと思う。それから、彼が貸してくれた自分のCDをメタル製のテープにダビングしたことを伝えた。つまり一番高くて音質がいいのに入れたよと言いたかったのだ。

 

「メタルってなんだ。何か違うのか」

 

僕は音楽業界の主のような彼が、こんな質問をしてきたので逆に驚いた。

「メタルって磁気が強くて音の再現性も高いんだと思う。ただ、もともと録音していた音楽の上にオーバーダビングすると、うっすら前の音が聞こえることがあるんだ。例えばドン・ヘンリーのアルバムを聞き飽きたからオルケスタ・デ・ラ・ルスを録音したら、後ろで小さくドン・ヘンリーが歌っているなんてことが起こる」

 

「それは知らなかったぜ。でも今のたとえ最高にいいね。ドン・ヘンリーをやめてオルケスタ・デ・ラ・ルスか」

 

僕が適当に言ったたとえを彼はぶつぶつと繰り返していた。彼は商業主義的な音楽を嫌っていて、ラテン音楽をこよなく愛していた。そしてルーツをたどってアフリカが彼のすべてだ。そしてよくこういった。

 

「ラテンほど洗練された音楽は存在しない」

 

イーグルスドン・ヘンリーが別に好きでも嫌いでもないけど、少し彼らに申し訳ないたとえをした気がした。でも日本初のサルサグループのオルケスタ・デ・ラ・ルスが、アメリカ大陸で普通にヒットしているのを知って誇らしかった。もちろんダニエルも知っていた。

 

「私はピアノ」がメキシコのテレビのトークショーで演奏されて、半分日本語で歌われたときは、特によく覚えている。僕は昼間、アパートで貸してもらっていた白黒テレビにかじりついて見ていた。

 

夜がこわいよな女にゃ、それでいいのよすべて・・・。

 

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